「森田芳光(もりたよしみつ)」とは?
森田芳光の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「森田芳光」とは?簡単に説明
東京都渋谷区円山町の料亭の息子として生まれた森田芳光は、日大芸術学部在学中に8ミリ映画の撮影を始め、1981年に「の・ようなもの」で監督デビューします。
1983年公開の「家族ゲーム」は印象の強い食卓での食事シーンが有名で、ブルーリボン賞監督賞、日本アカデミー賞優秀作品賞・優秀監督賞、優秀脚本賞などを獲得します。
その後も「メイン・テーマ」「それから」「失楽園」「阿修羅のごとく」「椿三十郎」などの作品を世に出します。
「森田芳光」の晩年
森田の妻は映画プロデューサーの三沢和子です。
デビュー作の「の・ようなもの」は自宅を抵当に入れて借金までして製作した作品でした。
こんな森田を生涯支えたのが和子夫人です。
森田監督の作品は二人の共同作品とも言えるものです。
晩年まで森田は精力的に映画製作に取り組みますが、約1年前から体調に異変を感じていました。
しかし、忙しさもあってか特に手は打っていないようです。
これが結果的に若くして亡くなるきっかけとなってしまいます。
亡くなる直前には腎臓にも異常が見つかったということですが、事すでに遅しでした。
「森田芳光」の死に様
森田芳光は2011年12月20日午後10時15分、都内の病院でC型肝炎が原因の急性肝不全のために急死します。
61歳でした。
1年くらい前から体調の異変を感じていたものの病院には行かず、普通に暮らしていました。
今秋になって体調を崩し、入退院を繰り返すことになります。
最新作「僕達急行 A列車で行こう」の九州および東京近郊でのロケが行なわれた9月6日から10月19日の間は元気でノリノリの様子でしたが、その後体調が悪化して都内の病院に入院します。
噂レベルですが近隣の住民によると、亡くなる約1週間前に一度退院し、ストレッチャーに乗せられて自宅に戻ったそうですが、自宅には医師や看護師が頻繁に出入りする状態が続き、12月17日ごろに再入院することになったようです。
「森田芳光」の死に様の信憑性
2012年3月24日に公開予定だった最新作の「僕達急行 A列車で行こう」の公開を待たずに亡くなった森田芳光監督。
この作品が遺作となりました。
関係者の話によると、亡くなる3ヶ月前にも一度危険な状態の時期があったらしいですが、この時は持ち直したそうです。
肝不全の原因はアルコールだと言われていますが、森田は数年前から摂生に努めていたらしく、ふだん酒は飲まなかったようです。
C型肝炎治療薬として「ハーボニー」と新薬「ソバルディ」を使用すると完治可能ですが、この新薬が承認・適用されるのは2015年のことになります。
なお、森田の最期はプロデューサーでもある和子夫人が看取っていますので信憑性に問題はないと思います。
まとめ
森田芳光監督作品はどれも個性的で、同じ監督が作ったものとは思えない作品が多いように感じます。
ジャンルにしてもアイドル映画から不倫映画、コメディ、シリアスドラマ、時代劇、文芸作品と幅の広さに驚かされます。
もし病魔に斃れていなければ、映画史に残るさらなる名作を生んでいたに違いない監督だと思います。