「毛沢東」の人生・人物像の概略を簡単に紹介してから、「晩年・死に際(死因)・死に様の信憑性」を詳しく説明します。
「毛沢東」とは?簡単に説明
毛沢東(もうたくとう,1893-1976)は、中華人民共和国の「建国の父」と呼ばれている政治家・指導者です。
毛沢東は中国国民党との「長征」、大日本帝国との「日中戦争」を戦って共産党指導者としての地位を高めました。
1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言して以降、1976年9月に死去するまで毛沢東は中国共産党の国家主席として独裁的な最高権力を保持していました。
「毛沢東」の死に様
毛沢東は1972年2月、米国のニクソン大統領と首脳会談を行いましたが、その頃から椅子から立ち上がるのも困難なほど「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の症状が進行していました。
毛沢東は若い頃からヘビースモーカーで、長期の不摂生な生活から「肺・心臓の持病」も持っていました。
1975年には肺気腫と持病の心臓疾患が悪化して病床に伏し、毛沢東が共産党幹部に直接命令することもなくなります。
革命の同志である周恩来・朱徳が1976年に死去した後、1976年9月9日0時10分に北京中南海の自邸で、毛沢東は病気の悪化・衰弱で死去しました。
享年82歳。
「毛沢東」の死に様の信憑性
毛沢東は1972年頃にはすでに筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症していて、運動機能が低下しつつありました。
1975年から、病床にあった毛沢東の命令は、甥の毛遠新を介して伝えられるほどにまで衰弱していました。
毛沢東は段階的に病気で弱っていき、1976年9月9日0時10分の死亡日時も明らかであることから、病気・衰弱による死亡という死に様の信憑性は高いのです。
毛沢東の遺体は完璧な防腐処理が施されて、現在も北京・天安門広場にある「毛主席紀念堂」に安置され続けています。
「毛沢東」の小ネタ等
毛沢東は「共産主義・社会主義」を前提とする中国近代化の起点をつくった政治指導者ですが、毛沢東が推進したラディカルな社会主義化政策「大躍進(1958年~)」は失敗に終わりました。
粗悪な鉄の生産と無理なノルマを課す集団農業で農業生産力がガタ落ち、その後の大飢饉で数千万人が亡くなったとされます。
大躍進失敗で権力を失った毛沢東は、自らを神格化する造反有理(反体制)の「紅衛兵」を動員、劉少奇・鄧小平らから政治権力を奪還するため「文化大革命」を展開してさらに数千万人の犠牲が出たとされます。
毛沢東には中国を建国し、「国連常任理事国・核保有国」として大国化した功績があります。
一方で、長期に政権を握った独裁者として「非現実的な社会主義改革・共産党の内紛」に国民を巻き込んだ影の側面もあるのです。
まとめ
「毛沢東」の人生のあらましを紹介した上で、「死に様・死に際・その信憑性」を詳しく説明しましたがいかがでしたか?「毛沢東」の晩年・死因・死に際がどのようなものであったのかを調べたい時は、この記事の内容を確認してみてください。