この記事では、「チュモン(東明聖王)」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「チュモン(東明聖王)」とは?
チュモン(東明聖王)とは高句麗の初代国王で、東明王と呼ばれることもあります。
韓国で制作されたテレビドラマ「朱蒙(チュモン)」のモデルになった人物で、韓国では40%以上の視聴率を記録しました。
日本でも放送されています。
紀元前37年に高句麗を建国したとされますが、古い時代のことなので歴史的資料に乏しくどんな人物だったのかはよく分かっていません。
古代中国の東北にあった夫余という国の王の息子とされます。
「チュモン(東明聖王)」の晩年
チュモン(東明聖王)は、夫余を逃れて南方に赴き高句麗を建国したといわれています。
鴨緑江と呼ばれる川の支流にある?佳江のほとりに都を置き、高句麗という名にしたのです。
周辺にあった?貊という国も属国にしています。
なぜ、国王の息子でありながら夫余から逃げ出さなければならなかったのかというと、他の王子たちから疎まれたためです。
チュモン(東明聖王)は弓や馬の能力に長けていたため、矢を射ると百発百中でした。
チュモンを漢字で書くと「朱蒙」となりますが、これには「弓の達人」という意味があります。
その能力に嫉妬されたため、疎まれるようになったという説もあります。
「チュモン(東明聖王)」の死に様
チュモン(東明聖王)が亡くなったのは、40歳の時とされています。
亡くなる数か月前に、夫余から妻の礼氏と子どもである類利(瑠璃明王)がやってきました。
チュモン(東明聖王)は大変それを喜んで、類利を後継者である太子にしたとされます。
チュモン(東明聖王)の死後、類利は第2代高句麗王となりました。
チュモン(東明聖王)には夫余を出てから娶った妻の召西奴もおり、礼氏を第一夫人、召西奴を第二夫人としています。
「チュモン(東明聖王)」の死に様の信憑性
チュモン(東明聖王)は40歳で亡くなっていますが、死因についてはよく分かっていません。
古い時代のことなので曖昧な部分も多くあります。
40歳というと若くして亡くなったイメージがありますが、当時としては40歳というのは若すぎるというわけではなかったようです。
病死した可能性が高いとされます。
まとめ
チュモン(東明聖王)は高句麗を建国し、息子である類利を後継者にしました。
その数か月後に40歳で亡くなっています。
死因についてははっきりしていません。