「エディット・ピアフ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「エディット・ピアフ」の死に際とは?世界の人物

ばら色の人生とはほど遠かった?「エディット・ピアフ」の散り際とは?

この記事ではエディット・ピアフの晩年と最期について解説していきます。

「エディット・ピアフ」とは?簡単に説明

バラ色の人生というフレーズは欧米でも彼女以前にも使われたタイトルがありますが、代名詞としたのは彼女だと言っていいでしょう。

フランス語の原題「La vie en rose」は日本の楽曲はもとよりアニメや店舗名でも使われ親しみのある言葉になっています。

シャンソンらしいシャンソンは聞く人を魅了し、その身体付きからは信じられない様な声を奏で“La Mome Piaf”の愛称でも有名。

生涯の前半は過酷な生活でばら色の人生とはかけ離れたものでしたが、第2次世界大戦終了後に一気に世界的スターになりました。



「エディット・ピアフ」の晩年

世界的スターとなり、米国進出。

『ばら色の人生』は大ヒット、さらに親友となったドイツ系米国人の大スター「マレーネ・ディートリッヒ」氏が同曲を持ち歌に加えた事で知名度は著しく上昇したと言えるでしょう。

ただしプライベートでは“ばら色”というわけにはいきませんでした。

「マルセル・セルダン」氏との悲恋の顛末はいうまでもありませんが、51年に自動車事故に遭ってしまいます。

元々の最愛の人を喪った悲しみに加え、痛み止めでモルヒネを多用し、中毒症を起こしてしまいます。

はては大スターでありながら、怪しげな取り巻きにより、巨額の借金を抱えることにまでなってしまいました。

晩年も『水に流して』のヒットがあったにも関わらずです。

その経緯については後年、幼なじみの「シモーヌ・ベルトー」が暴露本で告白していますが、信じがたい内容のものでした。



「エディット・ピアフ」の死に様

1963年10月10日にフランスのプラスカシエにてその生涯を終えています。

死因は肝臓癌でした。

47歳没。

「エディット・ピアフ」の死に様の信憑性

『愛の讃歌―エディット・ピアフの生涯』を書いた幼なじみの「シモーネ・ベルトー」氏によれば、ニューヨークへ向かうセルダン氏が船から飛行機へと変更したのは彼女の可愛い我が侭でした。

しかし何気ないひと言で最愛の人を亡くしてしまった故に、彼女は酒と薬に溺れて墜ちていきます。

あくまでもピアフ氏の提案で降霊術によりセルダン氏を呼び出す事が決まると、多額な費用に加えセルダン氏がシモーネ氏に大金を渡せと提言。

彼女が素直に受け入れると降霊するたびに金額が渡される事案となりました。

騙されていると忠言した記者もいたもの取り合われず、彼女は丸裸どころか莫大な借金を背負ってしまうのでした。

それでも死の1年前に結婚した「テオファニス・ランボウカス」氏の献身的な愛に応えて、命を削って彼をスターにすべく奮戦。

それに応えてテオ氏も歌に演技に著しい成長を見せ、スターへと駆け上がっています。

まとめ

1963年10月10日に肝臓癌で亡くなっています。

47歳没。

自身の事故とセルダン氏の死で薬物中毒になり、身体はボロボロで最期は麻酔が効かない状態でした。

最期の1年はボロボロの自分に愛を注いでくれたテオ氏に応えるように、命を削って歌い続けています。

テオ氏と出会った最期の2年は「ばら色の人生」を少し感じることができたのかもしれません。

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