エルヴィス・プレスリーの本当の死因は?
「エルヴィス・プレスリー」とは?簡単に説明
アメリカのロック歌手であるエルヴィス・プレスリーは、全世界において自身の音楽ソフトを5億枚超販売したミュージシャンで、「キング・オブ・ロックンロール」と称されています。
1950年代の「ロックンロール」の誕生と普及に大きく貢献した創始者の一人で、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されています。
1958年にプレスリーはアメリカ陸軍へ徴兵され、特例措置を受けずに普通の一兵士として2年間勤務して、満期で除隊しています。
その後、絶賛されていた音楽と反して駄作や凡作が多いことで知られている映画に出演しはじめ、映画内で使われている彼の楽曲は相変わらず素晴らしいものの、映画自体の興行成績はまったく振るいませんでした。
その後、結婚や離婚を経て、1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅グレイスランドにて、42歳というけっして長くない生涯に終わりを告げることになります。
「エルヴィス・プレスリー」の晩年
1967年に、エルヴィス・プレスリーはラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚し、この辺りの時期から数多くのツアーやコンサートを再び開催するようになっていきました。
それまでは映画などに注力していたプレスリーは、本業の音楽については1960年代に登場した新鋭ビートルズなどの勢いに押されてしまっていましたが、1968年に開催されたTVライブで再度脚光を浴び、そこから年間100回以上のライブを開催するほどの復活を遂げています。
また、このころになると、演奏する音楽のジャンルもロックンロールだけに留まらず、ゴスペルやポップスなども取り入れるようなり、老若男女を問わず幅広い客層に支持されるようになっていました。
そして1977年に開催される最後のコンサートまで、プレスリーのライブチケットはプレミアチケットとして入手困難な状況が続いていくのでした。
「エルヴィス・プレスリー」の死に様
1977年8月16日、翌日にコンサートを控えていたエルヴィス・プレスリーは、メンフィスにある自宅の浴室で倒れているところをガールフレンドに発見され、すぐに近くの病院へ搬送されますが、そのまま死亡が確認されてしまいます。
検視の結果、死因は主治医から処方されていた睡眠薬の過剰摂取が原因で起こった不整脈によるものと公式発表されていますが、プレスリーは晩年、頭痛や視力の低下、体重の増加などに悩まされており、これらに加えて不整脈や失神、高血圧などの肥大型心筋症に見られる症状を併発していたとも言われています。
プレスリーの死後40年が経過した2018年には、関係者から新たな証言が発表されました。
その内容によると、プレスリーは長年にわたる麻薬の常習者であり、睡眠薬や抗ヒスタミン薬、バルビツール酸塩だけではなく、処方せんグレードの強力な鎮痛剤が引き起こす便秘解消のための下剤など、数多くの薬を乱用していたとのことです。
プレスリーが死を迎える直前には、心臓に極端な圧力がかかっていた形跡があり、この症状は極度の便秘状態のものが力を入れた状態の時に心臓を圧迫してしまう症状と酷似していたとも言われています。
「エルヴィス・プレスリー」の死に様の信憑性
エルヴィス・プレスリーの死亡後、3名の医師が彼の遺体を検視しており、プレスリーの死因は心臓不整脈によるもので、数々の処方薬が原因ではないと発表していましたが、死後数週間が経過していたとある日に、彼の詳細な血液検査の結果が公表されます。
亡くなったプレスリーの血中からは、クアールードに加えてディラウディドやパーコダン、デメロ―ル、コデインなどの処方薬が合計11種類検知されましたが、彼の死亡とこれらの処方薬は無関係である。
という公式死亡記録を優先し、新事実についてはそのまま闇に葬られてしまいました。
1980年には、これら処方薬のすべてをプレスリーに処方していた医師が、わずか20ヵ月の間に1万2千錠もの処方薬をだしていたことが罪に問われ起訴されますが、最終的には無罪となっています。
2018年には、激しい便秘に苦しみながら排便したことによる心臓発作である。
という当時少なからずささやかれた主張が再度公表され、プレスリーの死は、晩年の肥満や2型糖尿病と関連しているという事実が一般的に認知され始めています。
まとめ
その後ニュースでは「エルビスは実は死んでいないのでは?」という情報が広がり、生きている情報を提供した人に対しては約3億円の懸賞がかけられるほどの大騒ぎに発展しますが、現在では沈静化して前述通りの心臓発作という死因が浸透しています。
「死因はトイレで踏ん張ったから」などというスーパースターにはあるまじき行為は、関係者ならずとも隠したかったのではないでしょうか。