「チャールズ・ダーウィン」とは?
チャールズ・ダーウィンの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「チャールズ・ダーウィン」とは?簡単に説明
チャールズ・ダーウィンはイギリスの地質学者・生物学者です。
22歳の時に5年にわたるビーグル号での世界一周航海に参加し、そこで集めた野生動物や化石の地理的分布から自然選択説を思いつきます。
なお、進化論のヒントとなったガラパゴス諸島にもこの航海で訪れています。
そして、1858年に同じ理論を提唱していたアルフレッド・ラッセル・ウォレスとともに小論は共同発表され、1859年に50歳で出した著書「種の起源」で進化論を確立していきます。
「チャールズ・ダーウィン」の晩年
1858年にダーウィンらによって発表された「自然選択」の要約に対する周りの関心は低いものでした。
しかし、1859年11月22日に発表された「種の起源」は予想外の人気を博します。
この理論は研究者たちには大いに歓迎されますが、当時のキリスト教からは大いに批判され、異端扱いされることになります。
ダーウィンはビーグル号での航海から帰国後2年経った28~29歳の頃から病気がちになっています。
都会の雑踏や閉塞感に悩まされ、疲れやすくなり、頻繁にめまいや吐き気に襲われるのですが、これは航海中の5年間にわたって悩まされた船酔いと、帰国後のキリスト教からの異端扱いによる相当なストレスが原因のようです。
そのため、ダーウィンは帰国した27歳から32歳までの5年間で10回以上も寝込んでいます。
1842年、33歳になってロンドンからイギリス南東部ケント州の通称ダウン・ハウスと呼ばれる広大な屋敷に引っ越してからは具合がよくなりますが、まもなく体調を崩し、それ以降ダーウィンの後半生は病苦との闘いとなります。
頭痛、めまい、湿疹、不眠症などの症状に苦しめられますが、特にダーウィンを苦しめたのは嘔吐でした。
食事のたびに嘔吐し、夜中も数度戻すという生活でした。
そして、1859年に発表した「種の起源」に対する保守的な人々の反感によって、いっそう体調は悪化します。
「チャールズ・ダーウィン」の死に様
ダーウィンは1881年の暮れに心臓発作で倒れます。
この発作自体はすぐに回復しますが、翌1882年になって病状が急速に悪化し心臓に痛みを感じるようになり、みぞおちが痛み不整脈も出るようになります。
そしてついに1882年4月18日、73歳で逝去します。
直接の死因は心臓疾患でした。
彼は地元でひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、イギリス政府により彼の葬儀は国葬となり、ロンドンのウェストミンスター寺院のアイザック・ニュートンの隣に埋葬されることになります。
ダーウィンの業績に対して最高の栄誉を与えるためだったそうです。
「チャールズ・ダーウィン」の死に様の信憑性
当時のイギリスの名のある医師たちによってダーウィンは診断されており、乳糖不耐症、鉛中毒、心気症、統合失調症などの病名が上がっています。
ただし、これらの病気は治癒できませんでした。
また再検証の結果、周期性嘔吐症候群(CSV)だったことも確実であろうと言われています。
CSVは原因不明の嘔吐を引き起こし、何年もの潜伏期間を持つことから、彼の症状に合致していると見られています。
しかし、CSVだけでは直接の死因である心臓疾患の説明ができず、これに関してはシャーガス病の感染の疑いが指摘されています。
まとめ
ダーウィンの直接の死因は心臓疾患とされていますが、その心臓疾患の原因や、ダーウィンが長年苦しめられた嘔吐などの症状の原因はさまざまに推測はされているものの確実な答えは出ていないようです。