この記事では、フランツ・リストの晩年や最期について紹介します。
フランツ・リストとは?
フランツ・リストとはハンガリー出身の作曲家で、ピアニストとしても知られています。
リストは青年時代、ヴァイオリニストであるパガニーニの超絶技巧を駆使した演奏に感銘を受け、自分はそれをピアノで表現しようと決意しました。
リストは圧倒的なテクニックを身につけ、ピアニストとして名声を手にします。
リストはピアノの魔術師と呼ばれることもあります。
30代半ばになると、今度は作曲や教育活動に力を入れました。
フランツ・リストの晩年
フランツ・リストは、ピアニストとしての演奏活動からは一線を退いていました。
自分自身が優秀なピアニストだったため、ピアノ曲を中心に沢山の曲を残しています。
交響詩というジャンルを生み出したのもリストです。
そして晩年になると、深みのある曲を書くようになりました。
1885年に「無調のバガテル」という曲を作曲しています。
調性のない無調音楽を完成させたのです。
また、リストは熱心なカトリック信者で、晩年には僧籍に入っています。
聖職ではありますが下級なので、結婚などは自由に行えます。
宗教色の濃い曲を作曲することが多くなり、キリストを題材にした曲も書いています。
それから1861年からローマに定住し、ローマで晩年を過ごしました。
フランツ・リストの死に様
フランツ・リストは晩年、体調不良に悩まされていました。
虚血性心疾患やうつ病、慢性気管支炎、白内障など様々な病を患っていたといいます。
また、アルコール依存症だったという説もあります。
ただし、そういった病からくる苦悩は、リストの作曲にも影響しました。
精神性が曲にも表れています。
そして、1886年に74歳で亡くなりました。
フランツ・リストの死に様の信憑性
フランツ・リストの死因は、心筋梗塞による心不全といわれています。
バイロイト音楽祭に行き、「トリスタンとイゾルデ」という楽劇を見た後に倒れてしまいます。
リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇でした。
ちなみにリストの娘コジマは、ワーグナーの2番目の妻となっています。
コジマの意思により、リストはバイロイトの地に埋葬されました。
まとめ
フランツ・リストは晩年も作曲活動を行っていましたが、様々な病からくる体調不良に悩まされていました。
そして、74歳の時に心筋梗塞を起こし、心不全で亡くなっています。