アインシュタインといえば、相対性理論を提唱したことで有名な物理学者です。
アルベルト・アインシュタインの晩年と最期を紹介します。
アルベルト・アインシュタインとは?
アインシュタインはドイツの生まれで、子どもの頃から数学では優れた才能を発揮していました。
9歳の時には、ピタゴラス定理を自力で証明したという逸話も残されています。
チューリッヒ連邦工科大学に進学し、26歳の時に、「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」といった論文を発表しました。
どれも物理学において画期的なものでしたが、当時は受け入れられませんでした。
しかし、徐々に認められるようになり、ノーベル物理学賞も受賞しています。
アルベルト・アインシュタインの晩年
アルベルト・アインシュタインは、ドイツからアメリカへの移住を決意します。
一般相対発表し世界的な物理学者として知られるようになっていましたが、アインシュタインはユダヤ系ドイツ人であったためドイツ国内では風当りが強かったのです。
イギリスやフランスを旅行した後にアメリカに渡り、そのままドイツに戻ることはありませんでした。
ドイツではヒトラーが率いるナチスが政権を握ります。
アメリカにある研究所の教授に就任し、アメリカ国籍も取得しました。
平和運動にも熱心に取り組んでいたといわれています。
哲学者であったバートランド・ラッセルと一緒に、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名します。
これは核兵器の廃絶や科学技術を平和利用することを訴えた宣言になります。
アルベルト・アインシュタインの最期
アルベルト・アインシュタインは76歳の時、腹部大動脈瘤が見つかり入院します。
医師からは手術を勧められますが、それを拒否しました。
そして、そのまま亡くなってしまいます。
ラッセル・アインシュタイン宣言が発表されたのは、アインシュタインが亡くなった後のことでした。
アルベルト・アインシュタインをめぐる逸話
アルベルト・アインシュタインが最初の妻であるミレヴァと知り合ったのは、チューリッヒ連邦工科大学時代です。
当時は女子学生は珍しく、ミレヴァも科学者の卵でした。
アインシュタインとミレヴァの間には息子が二人います。
しかし、アインシュタインはミレヴァと離婚し、エルザという親戚の女性と再婚しました。
その際、離婚の条件として提示したのがノーベル物理学賞の賞金だったといいます。
この時、まだアインシュタインはノーベル物理学賞を受賞してはいませんでした。
でも、確実に受賞できるという自信があったのでしょう。
実際、アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞しました。
ミレヴァとの長男であるハンスとは折り合いがあまりよくありませんでしたが、アインシュタインの臨終の際にはハンスが枕元に駆けつけています。
まとめ
アルベルト・アインシュタインは、晩年をアメリカで過ごします。
平和運動に熱心に取り組み、核兵器の廃絶や科学技術の平和利用を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名をしています。
そして76歳の時に亡くなりました。