新日本プロレスブームに貢献した人間山脈「アンドレ・ザ・ジャイアント」の死に際とは?
この記事では「アンドレ・ザ・ジャイアント」の晩年と最期について解説します。
「アンドレ・ザ・ジャイアント」とは?簡単に説明
国際プロレス時代に初来日するものの、「アンドレ・ザ・ジャイアント」のリングネームで来日したのは新日本プロレス時代が最初となります。
基本的に米国WWFではベビー・フェイスとして活躍していましたが、新日本プロレスではヒールとしてリングで大暴れ。
「アントニオ猪木」よりも今は無き田園コロシアムでの「スタン・ハンセン」との一騎打ち、「前田日明」とのセメントマッチは印象的でしょう。
全日本プロレス時代は御大「ジャイアント馬場」とのタッグが主戦場となりました。
身長は223cm、人間山脈が日本での別称となります。
「アンドレ・ザ・ジャイアント」の晩年
身長は晩年も伸び続けていたと言い、それに加えて、その悩みを隠すかのように暴酒を続けていたといいます。
それにより体重増加でコンディション不良が続くようになったのに加えて、WWFでは噛ませ犬のポジションを強いられるようになり、1990年をもって退団。
主戦場を日本の全日本プロレスに求めるのでした。
全日本プロレスでは御大ジャイアント馬場(206cm)との大巨人コンビを結成。
「ジャンボ鶴田」らが全日本プロレスの激しいプロレスを担うのに対して明るく楽しいプロレスを担って人気を呼びました。
「アンドレ・ザ・ジャイアント」の死に様
1992年12月4日全日本プロレス冬の風物詩である『92世界最強タッグ決定リーグ戦』に参加。
公式リーグ戦には参加しませんでしたが日本武道館の最終戦にはジャイアント馬場・ラッシャー木村とトリオを組んで出場。
その後米国へ帰国。
父親の葬儀のために故郷フランス・グルノーブルへ帰国します。
しかし1993年1月27日、米国へ帰国する前に滞在したパリのホテルで亡くなっています。
46歳没。
「アンドレ・ザ・ジャイアント」の死に様の信憑性
米国・ニューヨークを本拠地としたWWFで一時代を築いたベビーフェイス。
その中でも特別な存在で映画にも出演もしているだけに、その死は大きくニュースでも取り上げられています。
死因に関しては深酒が要因なのは間違いないところでしょう。
晩年はトレーニングを一切することなく、リングに立ち続けていたと言います。
亡くなる7~8年前の新日本プロレス来日時にも背が伸び続けて悩んでいたとされ、深酒はそれを打ち消すためのものだったとの証言もあったとようです。
まとめ
「アンドレ・ザ・ジャイアント」は米国からフランスのグルノーブルへ渡り、父親の告別式に参加。
その後米国へ帰国する前に滞在していたパリのホテルで急性心不全で亡くなっています。
1993年1月27日のことでした。
身長が伸び続けるとともに年々体重も増加しており、晩年はリング上で歩くのもしんどそうな様子が伺い知れました。
凄まじい深酒とノートレーニング、日々の不摂生が心臓に負担をかけたのは間違いないところでしょう。
92年12月全日本プロレス『最強タッグリーグ戦』シリーズ最終戦・日本武道館が生涯通じてのラストマッチになっています。