香港の山口百恵!?「アニタ・ムイ」の散り際とは?
この記事ではアニタ・ムイの晩年と散り際について解説していきます。
「アニタ・ムイ」とは?簡単に説明
漢字体表記で「梅 艷芳」1963年生まれの香港のトップスター。
歌はもちろんのこと、映画や舞台でも活躍しており、日本の芸能人で例えれば4歳年上の「山口百恵」氏に匹敵する実績を残しています。
歌や映画多彩な活動に加えて、唐突な形での活動終了はより彼女を伝説化させるものとなりました。
日本では「近藤真彦」氏と交際の噂が出たことで、よりその名前は知られることになったと言っていいでしょう。
近藤氏の『夕焼けの歌』を特に気に入っていたとされ、彼女の最期の歌もそのカバーとなりました。
「アニタ・ムイ」の晩年
映画では「アンディ・ラウ」氏主演の『ダンス・オブ・ドリーム』に出演すると2002年には『Anita Mui With』をリリースするなど、その活躍になんの陰りもないように思えました。
しかし2003年9月5日に自身が子宮頸癌に罹患していることを明かし、香港だけではなくアジア圏を震撼させるニュースとなりました。
「アニタ・ムイ」の死に様
03年12月30日の早朝にその生涯を終えています。
40歳没。
死因は4月に余命宣告されたという子宮頸癌でした。
「アニタ・ムイ」の死に様の信憑性
子宮頸癌で余命宣告をされたのは03年の4月30日とされ、残された時間を駆け抜けていくことになります。
自身が癌である事を公表したのは、それから4ヶ月後のこと。
11月6日から6DAYS、中日を挟んで14日から千秋楽2DAYSコンサートを香港体育館で開催。
千秋楽の大トリの1曲にはウエディングドレス姿で登場し、今の自身の心境を語るとともにファンに刻の大切さを語っています。
最期の1曲に選んだのは『夕陽之歌』でした。
夕陽と黄昏は美しいけれど. . その時間は短くて儚い、だからこそその時間を大切にして欲しいとコンサートに来場したファンに直接語りかけています。
その後『Modern Beauty salon』社のCM撮影で03年11月下旬に京都入り。
4日間滞在、これが最期の仕事となっています。
まとめ
03年12月30日早朝に永眠。
40歳没。
死因は子宮頸癌によるものでした。
中国国際放送局の彼女の記事によれば、既に同年の4月30日に余命幾ばくもないことが本人に告げられたと言います。
香港ではその影響力は未だに甚大。
21年11月には彼女の名前『アニタ・ムイ』で伝記映画が公開されています。
現地の経済紙によれば5週の興業成績は6000万香港ドル。
香港市民の9人に1人が見たとされ、数々のレコードを樹立しています。