「原爆の父」として知られるオッペンハイマーの死因は?
「ロバート・オッペンハイマー」とは?簡単に説明
1904年にアメリカ合衆国のニューヨークで生まれたロバート・オッペンハイマーは、第二次世界大戦中にロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導した「原爆の父」として知られている理論物理学者です。
1930年代末には宇宙物理学の領域でブラックホールの研究を進めていましたが、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、3年後の1942年にはオッペンハイマーを中心として原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始されます。
3年後、オッペンハイマーが初代所長として率いるロスアラモス国立研究所では、世界で初となる原爆の開発に成功し、原爆製造研究チームは1945年7月、ニューメキシコで核実験を行います。
トリニティ実験と呼ばれたこの世界初の原爆実験のわずか3週間後には、大日本帝国の広島市と長崎市にそれぞれ原子爆弾が投下され、第二次世界大戦はようやく終戦を迎えることになります。
「ロバート・オッペンハイマー」の死に様
ロバート・オッペンハイマーは後年、核兵器の開発を所長として主導した事を後悔していることを吐露しています。
また、戦後15年が経過した1960年には、来日を果たし、バークレー時代の弟子だった故人の日下周一氏の両親に会って、弔意を表しています。
さらに5年後の1965年には、咽頭がんの診断を受け、手術を受けますが完治はせず、ひきつづき放射線療法と化学療法を続けたものの効果はありませんでした。
しばらく療養していたオッペンハイマーは、1967年、昏睡状態に陥り、ニュージャージー州プリンストンの自宅で62年間の生涯に別れを告げることになります。
「ロバート・オッペンハイマー」の死に様の信憑性
オッペンハイマーが主導して開発した原子爆弾の効果は、開発に関わった科学者たちや研究者たちの想像をはるかに超えるものでした。
投下された広島や長崎の爆心地から運よく逃れた人たちもいましたが、家族や親族を探すために、原爆投下後3か月が経過していた爆心地に向かい、探索をしていた人たちにもその後異常が現れるようになり、探索者たちの多くが突然の発熱に見舞われ、体中に紫斑が現れ、鼻血が止まらなくなる症状が起こり始めました。
広島と長崎で発生し始めたこの状況に震撼したのが、外ならぬオッペンハイマーを始めとするアメリカの科学者たちで、原子爆弾は投下した数か月後においても、人々を蝕み続けているという報告に目を疑ったと言います。
この報道を受けて、アメリカ政府は原爆を投下したことへの世論の反応を恐れ、一枚の写真をマスコミ経由で全世界に公開します。
その写真には、原爆開発のためのマンハッタン計画を指揮したグローブス将軍とオッペンハイマーが、人類史上初の原爆実験を行ったニューメキシコ州のトリニティー実験場の爆心に立っている写真で、この写真は原爆実験後のわずか2か月にも満たない9月に撮影されたものでした。
アメリカ政府は原爆投下を否とする世論対策として、原爆開発を主導した2名を実験場に向かわせ、安全性をアピールするために写真を撮って公開したのでした。
ロバート・オッペンハイマーの命を奪った病気は喉頭癌です。
この癌の原因は、原爆実験後のわずか2か月弱という短い期間で実験場に向かわされ、現場で写真を撮影させられたことと関係があるのかは、現在においても語られていません。
「ロバート・オッペンハイマー」の小ネタ等
ロバート・オッペンハイマーは戦後、原子力が軍事利用され続けることで、将来的にコントロール不能なものになるという主張をし始めます。
さらに、その後アメリカで水素爆弾の開発が新たに開始された際に、オッペンハイマーは強く反対の意を示しています。
原子爆弾のパワーを凌駕するほどの水素爆弾が開発されれば、人類には到底制御できるわけがないという彼の主張は、当時のアメリカには受け入れられることはありませんでした。
まとめ
ロバート・オッペンハイマーが生前予見していた通り、第二次世界大戦という大きな戦争が終わった後も、けっして世界に平和は訪れず、時間と共により混沌としたものになっていきました。
武力に対してさらに強大な武力で抑え込んでも、それは新たな憎しみの種を蒔くだけに過ぎず、実質的な問題解決には繋がることはないという事実は、オッペンハイマーのみならず、多くの人々が理解しているものの、未だ世界中では大小様々な爆弾が投下され続けています。