「日蓮」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「日蓮」の死に際とは?日本の人物

この記事では、「日蓮」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「日蓮(にちれん)」とは?簡単に説明

「日蓮」とは、鎌倉時代の仏教僧であり、日蓮宗の宗祖である人物です。

清澄寺で修行に打ち込み、出家を許された後、比叡山にて再び修行の日々を送ります。

「立正安国論」を提出し、幕府批判、他宗教批判を行ったことにより、流罪に処され、伊豆の伊東へ流されました。

その後、再び「立正安国論」で蒙古襲来に対して、幕府に意見したため、今度は佐渡へ流罪となります。



「日蓮」の晩年と最期

「日蓮」は建治3年(1277年)の暮れごろに胃腸系の病を患います。

治療を受け、病状は一時的に回復しつつも、次第に進行していきました。

そして、弘安4年(1281年)の5月には、死が近づいていることを悟り、同年12月になると、門下への書簡の執筆ですら困難な状況に陥りました。

弘安5年(1282年)の秋になると、病状はさらに進行します。

寒冷な土地で年を越えるのは難しいと判断され、他の土地(諸説あり)へ移り、温泉で療養することになりました。

このとき、移動中に衰弱が進んだ「日蓮」は自分の墓を身延の地に設けるよう書簡を記しています。

「日蓮」の滞在先には、それを聞きつけた多くの門下が集まり、そこで最後の説法となる「立正安国論」の講義を行いました。

そして、弘安5年(1282年)の10月13日、多くの門下に見守られながら池上兄弟の舘で入滅します。



「日蓮」の死に様の信憑性

死に際して、「日蓮」は本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことと、持ち歩いていた釈迦仏の立像と注法華経を自身の墓所の傍らに置くこと遺言に記したと伝わっています。

「日蓮」という名の由来

清澄寺にて断食を終えた「日蓮」は早朝に外で合掌しました。

そのとき、ちょうど包み込まれるように朝日に照らされた「日蓮」は、無意識に「南無妙法蓮華経」と口ずさみました。

この経験がきっかけで、太陽の「日」と出家したときの自身の法名「蓮長」を組み合わせて、「日蓮」と名乗るようになったと伝わっています。

まとめ

「日蓮」とは、鎌倉時代の仏教僧であり、日蓮宗の宗祖である人物です。

鎌倉幕府に対する意見書を提出したことにより、2度の流罪に処されてしまいます。

晩年は、胃腸系の病を患い、温泉で療養するために住処を移します。

そして、滞在先で最後の説法を行った後、弘安5年(1282年)の10月13日に入滅しました。

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