この記事では、「楊貴妃」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「楊貴妃(ようきひ)」とは?簡単に説明
「楊貴妃」とは、中国唐王朝の皇妃です。
「楊貴妃」を寵愛するあまり、「玄宗皇帝」は政治に関心を示さなくなって「安史の乱」が起こったという伝承にちなみ、「傾国の美女」と称されています。
また、世界三大美女の1人、古代中国四大美人の1人にも数えられています。
「楊貴妃」の晩年と最期
「楊貴妃」と共に享楽にふける「玄宗」は政治を顧みなくなり、その間に臣下である「安禄山」と「楊国忠」の対立が激化していきます。
そして、「楊国忠」が「安禄山」排除を画策したことがきっかけで、逆に「安禄山」は陽一族排除を掲げて挙兵、天宝14載(755年)に「安史の乱」が勃発します。
「楊国忠」らは鎮圧軍を派遣するも、「安禄山」らの攻勢を阻むことができず、洛陽が陥落してしまいました。
このとき、「楊貴妃」は土を口に含んで、自害を請い、逸る「玄宗」を引き留めたと伝えられています。
その後、逃避先で味方の武将と兵士が暴動を起こし、乱の原因である「楊貴妃」を「賊の本」とし、「玄宗」に殺害を要求しました。
はじめ、「玄宗」は「楊貴妃」を庇おうとしましたが、やむなく「楊貴妃」、そして、「陽国忠」に自害を命じます。
そして、「楊貴妃」は宦官の高力士により絞殺、36年の生涯を終えることになったのです。
「楊貴妃」の死に様の信憑性
自害を命じられた「楊貴妃」は「国の恩に背いたので、死しても恨まない」、「最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残したと伝えられています。
長安に戻った「玄宗」は「楊貴妃」の霊を祀って、改葬を命じるも、反対を受けたので、密かに改葬したそうです。
その後、「玄宗」は画工に描かせた「楊貴妃」の絵を朝晩眺めていたと云われています。
また、当時、「楊貴妃」の靴を片方手に入れた女性が、旅人から見物料を取って大金持ちになったという伝承もあるようです。
まとめ
「楊貴妃」は「世界三大美女の1人」や「古代中国四大美女の1人」に数えられ、「傾国の美女」とも称される中国唐王朝の皇妃です。
「傾国」とあるように、彼女を寵愛した「玄宗皇帝」が政治を顧みなくなったことにより、「安史の乱」が引き起こされたとも云われています。
その「安史の乱」の最中、乱の原因とされた「楊貴妃」は「玄宗」より自害を賜り、絞殺されてしまいます。
享年36歳でした。