この記事では、クロード・ドビュッシーの晩年や最期について紹介します。
クロード・ドビュッシーとは?
クロード・ドビュッシーとはフランス出身の作曲家で、現代音楽の祖と呼ばれることもあります。
ドビュッシーは10歳でパリ音楽院に入学した天才で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍しました。
代表曲には「月の光」や「海」「夜想曲」「亜麻色の髪の乙女」「牧神の午後への前奏曲」等があります。
「月の光」はベルガマスク組曲の第3曲で、誰でも一度は耳にしたことがあると思います。
抒情的で内面を繊細に表現する音楽がドビュッシーの特徴です。
クロード・ドビュッシーの晩年
クロード・ドビュッシーは晩年、作曲家として不動の地位を築いていました。
1913年にはバレエ音楽「遊戯」を完成させています。
その年には、モスクワやペテルブルグに演奏旅行にも出かけました。
そして、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドビュッシーは大きな衝撃を受けます。
2番目の妻の連れ子であるウラルは、兵士として動員されてしまいました。
そのため一時は作曲が出来なくなってしまったほどです。
しかし、その後は精力的に曲作りに励みました。
戦争によって攻撃された美を取り戻したいとの思いからです。
「チェロとピアノのためのソナタ」や「白と黒で」「もう家のない子供達の降誕祭」等の曲を書いています。
プライベートでは2度結婚していますが、女性関係はかなり派手だったようです。
2番目の妻エンマとは不倫の末に再婚しています。
クロード・ドビュッシーの死に様
第一次世界大戦が勃発した頃、クロード・ドビュッシーは大腸がんを患っていました。
病に侵されながらも作曲活動を続けていましたが、1918年になると症状が悪化し日に日に衰弱していきます。
そして、58歳で息を引き取りました。
クロード・ドビュッシーの死に様の信憑性
クロード・ドビュッシーは、戦争に非常に衝撃を受けていたようです。
1914年7月に始まった第一次世界大戦は、1918年11月まで続きました。
大腸がんを患ったドビュッシーは家族と共に郊外に転地しましたが、戦争の爆撃音が聞こえることもあったといいます。
その音におびえ、体調も徐々に悪化していきました。
戦争がドビュッシーの気持ちを落ち込ませたのかもしれません。
まとめ
クロード・ドビュッシーの晩年は、第一次世界大戦に衝撃をうけながらも作曲に励んでいました。
大腸がんを患い58歳で亡くなっています。