「ルイ17世」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「ルイ17世」の死に際とは?世界の人物

ベルサイユのばらでは描かれなかった「ルイ17世」の散り際とは?

この記事ではルイ17世の晩年と散り際について解説します。

「ルイ17世」とは?簡単に説明

『ベルサイユのばら』では母親である「マリーアントワネット」の最期が描かれ、ルイ17世は市民とダンスをし、脳天気に話を終えています。

しかし現実は非情であり、彼は投獄されたのち苛烈な扱い、虐待、侮蔑のなかで生きていくことを余儀なくされました。

子供らしく生きることができたのはヴァレンヌ逃亡事件の前までだと言っていいでしょう。

6歳にしてタンプル塔に幽閉。

1793年1月に父・ルイ16世が処刑されると、ロペスピエール派により恐怖政治が開幕、生き地獄の始まりとなりました。



「ルイ17世」の晩年

父が亡くなった後、93年3月からはロベスピエール派による恐怖政治が始まります。

それまではそれなりの敬意と待遇を受けていたのが一変。

虐待と侮蔑の波に飲み込まれていきます。

この時点ではフランス国家ではなく革命歌であった『ラ・マルセイエーズ』唱歌の強要はまだ可愛い方で不衛生な環境のなか、後見人「アントワーヌ・シモン」は苛烈な虐待を行いました。

恐怖政治下ゆえにそれを非難しようものならば、投獄はおろか命の危険にまで合う始末。

こうしてルイ17世は肉体的にも精神的にもボロボロに追い詰められていきます。



「ルイ17世」の死に様

ロベスピエール派による恐怖政治が終了したのは94年7月のテルミドールクーデター後。

「ポール・バラス」がルイ16世の二人の遺児を訪問、その惨状を見て、待遇は改善されていきます。

しかしそれは劇的な改善とまではいかず、94年2月から続いた独房での監禁がほんの少し良くなっただけでした。

95年5月には既に死にかけている状態だと評されるも、満足な治療を受けることはできません。

同年6月8日15時に呼吸困難を起こし、まもなく死亡しています。

10歳没。

死因は結核と言われます。

「ルイ17世」の死に様の信憑性

93年3月からロベスピエール派による恐怖政治があったことで、虐待の事実はあったもの告発すれば自身が危うくなるため、資料に残るものは後年の目撃情報によって記されたものが殆どだと言っていいでしょう。

ルイ17世の伝記『Louis XVII : la biographie』はアマゾンフランス版などで購入できます。

約250年前の話のため、仮説も多くなっていますが、フランス国外、スペインやイギリス両国の外相がルイ17世が性的虐待に遭っていたことを知っている点などを挙げればその信憑性もおのずとわかると言えるでしょう。

死因の結核説は手足に膿が溜まった瘤ができていたこと。

せむしと呼ばれたのは脊椎カリエスによるものだったと推測されるからです。

まとめ

ルイ17世は1795年6月18日15時に呼吸困難に陥り、心不全を起こして死亡しています。

10歳没。

死因は結核と言われます。

栄養失調、くる病、性病と他にも多数の体調不良を抱えおり、満足な治療どころか、危篤に陥っても薬すらもらえませんでした。

多少待遇が改善された94年秋には既に自力歩行できなかったそうです。

人気アニメ『ベルサイユのばら』の「ルイ・シャルル」とは全く違った苛烈な最期を遂げました。

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