「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるアメリカ人教師「クラーク博士」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「クラーク博士」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「クラーク博士」とは?簡単に説明
「クラーク博士」の名で知られる「ウィリアム・スミス・クラーク」はアメリカ人の教師であり、札幌農学校の初代教頭を務めた人物です。
名門であるアマースト大学へ入学し、ドイツへ留学した後に同大学で科学の博士号を取得しました。
さらに、わずか20代で同大学の教授へ就任し、化学・動物学・植物学3つの専門を担当して教えています。
やがて、「クラーク」は農業教育の推進を志すようになり、1853年に新設された学部の長を務めた後にマサチューセッツ農科大学の3代目学長へと就任しました。
「クラーク博士」の晩年と最期
1876年に日本政府からの強い要請に応え、「クラーク」はマサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して、札幌農学校の教頭に期限付きで就任します。
このとき、「クラーク」を紹介したのが同志社大学の創始者である「新島襄(にいじま じょう)」でした。
9カ月の任期を終えた「クラーク」は1877年に札幌を離れ、帰路につきました。
アメリカに帰国した「クラーク」はマサチューセッツ農科大学学長を辞し、洋上大学の新設を目指します。
しかし、資金集めは難航し、生活苦に陥っていたときに友人である「ジョン・ボスウェル」と共に「クラーク・ボスウェル社」という鉱山会社を開きます。
会社は当初、大きな利益を出していましたが、友人が横領を繰り返した末に逃亡し、会社もわずか設立から1年半で倒産してしまうのでした。
さらに、破産をめぐって叔父からも訴訟を起こされてしまいます。
その後、「クラーク」は心臓病に罹り、1886年3月6日に享年59歳で亡くなりました。
「クラーク博士」の死に様の信憑性
心臓病を患ったことで、ほぼ寝たきりの生活となった末に息を引き取りました。
「少年よ、大志を抱け」“Boys
. 「少年よ、大志を抱け」“Boys, be ambitious”「クラーク博士」の代名詞とも言えるこのセリフは帰国する際に、札幌農学校第一期生の生徒たちへ贈られた言葉です。
この別れ際の言葉ですが、全文は「少年よ、大志を抱け この老人のように」であり、そのほか「利己や金のためではなく、人としての本分を成すべく大志を抱け」などのように言われたとも伝わっています。
まとめ
「クラーク博士」(ウィリアム・スミス・クラーク)は化学・動物学・植物学を教えていたアメリカ人の教師であり、日本政府の要請を受けて札幌農学校の初代教頭を務めた人物です。
アメリカへ帰国後は友人と共に鉱山会社を立ち上げますが、友人が資金横領を繰り返した挙句に逃亡し、会社は倒産してしまいます。
その後、心臓病を患ってからはほぼ寝たきりの生活になり、1886年3月6日に享年59歳でこの世を去りました。