フレデリック・ショパンはピアノの詩人と呼ばれ、ピアノの名曲を数多く残しています。
その晩年と最期について紹介します。
フレデリック・ショパンとは?
ショパンはポーランド出身の作曲家で、ピアニストとしても知られていました。
ヴァイオリンを弾く父とピアノを弾く母の間に生まれ、音楽に囲まれた環境で育ちます。
ピアノを本格的に習い始めるとその才能が開花して、神童と呼ばれるようになりました。
ワルシャワ音楽院に学び、卒業した後はウィーンに赴きます。
ウィーンで演奏会を開き、ショパンはピアニストとしても作曲家としても名声を手にしました。
フレデリック・ショパンの晩年
ショパンの故郷では、ロシアの支配に対する武装反乱が起きました。
しかし、この蜂起が失敗してしまったことをショパンはウィーンに滞在している最中に知ります。
その時の哀しみや憤りが、「革命のエチュード」を生み出したと言われています。
ショパンはウィーンからパリに行き、その後も祖国に戻ることはありませんでした。
ショパンは大規模な演奏会を開くよりも、小さなホールなどで演奏することを好んだといいます。
繊細でシャイな性格でした。
公の場に出ることはあまりなかったのですが、ピアニストとしての名声はさらに高まっていきました。
作曲活動をしたりピアノを教えたりして、かなりの収入を得ていたといわれています。
ただし、ショパンは10代の頃から肺結核を患っており、体調は思わしくありませんでした。
作家でフェミニストとして知られるジョルジュ・サンドと出会い、恋に落ちます。
ショパンには当時婚約者がおり、サンドは結婚はしていませんでしたが2人の子供がいました。
やがてサンドとショパンは一緒に暮らすようになり、二人の関係は9年にわたって続きました。
フレデリック・ショパンの最期
ショパンの肺結核は徐々に悪化し、ジョルジュ・サンドとの仲にも亀裂が入ります。
二人は結局、別れることになりました。
ショパンはサンドと別れた後、うつ状態に陥ったと言われています。
その後、演奏会を開くなど音楽家として活動していましたが、体調はますます悪化していきます。
医者に支払うお金が増え、経済的にも困窮しました。
そして、39歳で亡くなったのです。
ショパンの妹は14歳で亡くなっていますが、その死因も肺結核だったといわれています。
また、ショパンの父も肺結核によって亡くなりました。
フレデリック・ショパンをめぐる逸話
ショパンの作曲家としての円熟期は、ジョルジュ・サンドと過ごした数年間といわれています。
この頃に、「幻想曲」や「バラード第4」「舟歌」「幻想ポロネーズ」など名曲を沢山世に送り出しました。
まとめ
フレデリック・ショパンは数々のピアノの名曲を生み出し、ピアニストとしても作曲家としても成功をおさめます。
しかし、若い頃から肺結核を患い、晩年は徐々に悪化していきました。
そして39歳で亡くなっています。