この記事では、「ベニート・ムッソリーニ」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「ベニート・ムッソリーニ」とは?簡単に説明
「ベニート・ムッソリーニ」は、本名「ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ」であり、イタリアの政治家や軍人を務めた人物です。
イタリアの「第二次世界大戦」参戦と「ファシズム」を創始した人物の1人としても知られています。
1921年に「全国ファシスト党」を結成、最高指導者となりました。
そして、1939年に「第二次世界大戦」が勃発すると、「ベニート・ムッソリーニ」は当初、中立の立場をとりますが、ドイツ優勢と見ると、イギリスとフランスに宣戦布告します。
「ベニート・ムッソリーニ」の晩年と最期
「第二次世界大戦」に参戦したイタリアでしたが、結果は惨敗に終わります。
議会は政権から「ベニート・ムッソリーニ」を排除することを決定し、国王に呼ばれた「ベニート・ムッソリーニ」はそのまま逮捕され、幽閉されてしまいます。
しかし、その後、イタリアに侵攻してきたドイツ軍によって救出され、北部のガルダ湖畔にて「サロ共和国」独立政権を築くのでした。
南部に移ったイタリア王国と対峙することとなった「サロ共和国」ですが、実態はドイツ軍の傀儡政権であり、「ベニート・ムッソリーニ」自身も病気が侵攻していきます。
そして、ファシスト政権時代に投獄された共産党員が解放後にパルチザン闘争を開始、パルチザンによって捕えられた「ベニート・ムッソリーニ」はしばらくの間、民家に幽閉された後、略式裁判により即時処刑が決定されます。
そして、1945年4月28日に処刑されました。
享年61歳でした。
「ベニート・ムッソリーニ」の死に様の信憑性
「ベニート・ムッソリーニ」は死の間際、動じることもなく「心臓を撃て」と潔く銃殺刑に処されたと証言されています。
遺体は見せしめとして、建物に逆さ吊りにされるのでした。
「ベニート・ムッソリーニ」の遺体は司法解剖の後、ミラノ郊外にある墓地に埋葬されますが、悪用を防ぐために無名の石碑が設けられました。
まとめ
「ベニート・ムッソリーニ」はイタリアの政治家や軍人を務めた人物であり、イタリアの「第二次世界大戦」参戦と「ファシズム」を創始した人物の1人です。
「第二次世界大戦」でイタリアが惨敗を期すと、「ベニート・ムッソリーニ」は失脚してしまいます。
その後、ドイツに救出され、ドイツの傀儡政権を樹立させますが、パルチザンに捕縛されました。
そして、1945年4月28日に銃殺刑に処され、61歳でこの世を去ります。