希代の演奏家イギリス海峡に消ゆ「グレン・ミラー」の散り際とは?
この記事ではグレン・ミラーの晩年と散り際について解説していきます。
「グレン・ミラー」とは?簡単に説明
今聞くとかえってそのクラシックさが斬新なスウィングジャズ・ビッグバンドの旗頭であり、自身の名前のついた「グレン・ミラー楽団」を起ち上げています。
その代表曲としては『イン・ザ・ムード』や『チャタヌガ・チュー・チュー』は外せないところでしょう。
いわゆるモダンな音楽として昭和の戦前から昭和20年代を題材にしたドラマではこの2曲が流れるシーンも多く見られるはずです。
また大学生のビッグバンド大会でも良く耳にすることができるでしょう。
「グレン・ミラー」の晩年
第二次世界大戦の勃発により、米国陸軍航空隊に所属することになりました。
航空隊と言っても当然パイロットではありません。
故郷を離れ郷愁の念にかられる米軍兵士の士気を向上させるための慰問活動に従事。
その活動は楽団を率いて戦地に赴いたものをはじめ、米国内で負傷兵への慰問、そしてボイスオブアメリカを通じてジャズを戦地の兵士に届けています。
1944年12月、英国で新曲のレコーディングを終えると、夏にナチスから解放されたフランス・パリへ向かうことになりました。
その目的は解放されたパリでのコンサート。
当初はロンドンから約80キロのミルトン・イースト空軍基地からフランスへと渡る予定でしたが、パリ行きの便はありませんでした。
これによりツインウッドへ移動しますが、この選択がミラー氏の運命を大きくわけることになったといえるでしょう。
「グレン・ミラー」の死に様
1944年12月15日、乗客として搭乗していたアメリカ空軍機とともにイギリス海峡で消息を絶ちました。
40歳没。
「グレン・ミラー」の死に様の信憑性
確実に判明しているのは13時55分にツインウッド・ファーム空軍基地からノールダイン・ノースマンでフランスへと出立したことです。
当時の見解としては飛行機の何らかのトラブルによる墜落だと思われていました。
当日のコンディションは気温5度で濃霧だったとはいえ飛行できないものではなかったとされます。
ミラー氏の死について大きな動きを見せたのは1954年の『グレン・ミラー物語』の公開によるものでした。
映画を見た英空軍の「フレッド・ショー」氏が英国空軍が帰投の際に使用する爆弾投下エリアで爆弾を投棄した際にノースマンが真下にいて爆弾と接触したことで墜落していったと証言し、騒動を呼ぶことになりました。
ノースマンは米軍所有の珍しい機体で当時5機しか存在していなかったことから、映画でミラー氏が搭乗したのを見て確信したといいます。
当初は売名行為としか思われなかったもの、当時の機長「ヴィンセント・グレゴリー」氏もショー氏の見解に同意、事態は大きく動くことになりました。
一方で2014年『シカゴ・トリビューン』が新説を発表。
ノースマンにはキャブレターに欠陥がありエンジン停止による墜落事例が複数あり、それは冬季に生じていると解説しています。
しかし前述通り当日の気温は5度で特段低いわけではありません。
そのため新説の信憑性に関しては微妙だと認識されています。
まとめ
1944年12月15日に乗客として搭乗していた飛行機が消息を絶ち、その時に死亡したと思われます。
40歳没。
1985年にイギリス海峡でノースマンの残骸が発見されました。
しかしミラー氏、パイロット、米空軍兵3人の遺体や遺骨の痕跡は発見されることはありませんでした。