「西太后」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「西太后」の死に際とは?世界の人物

この記事では、「西太后」の晩年や最期を分かりやすく説明します。

「西太后」とは?

「西太后」とは清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母親でもあります。

清の末期に権力を握り、政治にも深く関わりました。

18歳で咸豊帝の後宮に入り、男児を生みます。

咸豊帝が亡くなると政治の実権を巡って激しい対立が起きますが、「西太后」は咸豊帝の正妻であった東太后や咸豊帝の弟を味方に引き入れ大臣たちを処刑して実権を握ることに成功しました。

息子である同治帝が皇帝として即位します。

しかし、同治帝は若くして亡くなったので、自らの甥を光緒帝に即位させます。



「西太后」の晩年

「西太后」は、晩年も清において権力を握っていました。

皇帝となった光緒帝は、道光帝の孫で母親は「西太后」の妹にあたります。

「西太后」が自らの地位を保つために擁立した人物ですが、成人すると自ら政治を行いたいと考えるようになります。

体制の改革を図りますが「西太后」に阻まれます。

「西太后」は光緒帝を幽閉し、政治の実権を亡くなるまで握り続けました。

独裁的な権力をふるった「西太后」ですが、清王朝自体は衰退していきます。

日清戦争では日本に敗れ、日本やロシア、フランス、ドイツ、イギリスといった国々によって中国の分割が進められます。

1900年に起きた義和団事件では排外主義の義和団を支持し、諸外国に宣戦布告を行いました。

しかし、北京を攻撃され宮廷ごと西安に逃れています。



「西太后」の死に様

「西太后」は、1908年に72歳で亡くなりました。

幽閉していた光緒帝が亡くなった翌日でした。

死因ははっきりとは分かっていませんが、赤痢だったのではないかもといわれています。

亡くなる前には、愛新覚羅溥儀を宣統帝として擁立しようとしていました。

「西太后」の死に様の信憑性

清王朝で権力を握り続けた「西太后」でしたが、病には勝てず亡くなりました。

光緒帝が死亡した翌日に亡くなるのですが、実は光緒帝は「西太后」に毒殺されたのではないかといわれています。

光緒帝が毒殺されたのは間違いないようで、2000年代に遺体を分析した結果致死量を上回るヒ素が検出されています。

誰が光緒帝を殺害したのかは明確ではありませんが、「西太后」が幽閉し厳重に管理していたことを考えると「西太后」が毒殺を命じたと考えるのが自然です。

自らの死期を悟り決断したのかもしれません。

まとめ

「西太后」は晩年も清王朝で権力を握り続けます。

しかし、清王朝は衰退していきました。

病に倒れ、72歳で亡くなっています。

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