「レフ・トロツキー」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「レフ・トロツキー」の死に際とは?世界の人物

レーニンの評は党中央で最も優秀な人物であったが. . . 「レフ・トロツキー」の散り際とは?

この記事ではレフ・トロツキーの晩年と散り際について解説していきます。

「レフ・トロツキー」とは?簡単に説明

ロシアの10月革命において、遺憾なくその存在を知らしめたのが「レフ・トロツキー」氏だと言っていいでしょう。

「ウラジーミル・レーニン」氏のいわゆる遺言状では「スターリン」氏が酷評されていたのに対して、党中央委員会の中で最も有能だと評価した人物です。

ただし能力とは裏腹に性格や政策については一言を呈していたとおり、彼の死後は反主流派となり孤立。

閑職に追いやられ、ついには国外退去処分を下されてしまうのでした。



「レフ・トロツキー」の晩年

レーニン死去後は反主流派となり、全ての職を解任。

辺境の中央アジアに送られ、さらに国外追放の憂き目にあったのは1929年のことでした。

以降はトルコ、フランス、ノルウェーと欧州を彷徨う流浪の民となるも、スターリン批判を続けます。

しかしノルウェーがソ連の圧力により国外退去処分を決めたことで、欧州をあとにしメキシコへ亡命しています。

ソ連・スターリン批判を展開する一方で、自身の傍にもスターリンの影、刺客の存在に脅えることになっていきました。



「レフ・トロツキー」の死に様

1940年8月20日17時ごろ、メキシコシティ郊外のトロツキー氏別荘にて事件は発生。

秘書の恋人として紹介されていた「ラモン・メルカデル」が論文を持ち込み、その評価を依頼しました。

トロツキー氏がその論文を確認している背後からショートピッケルで後頭部を一撃。

声を聴いて警備員が駆けつけたことでその場の難は逃れたもの、搬送された病院で翌日19時ごろに亡くなっています。

60歳没。

「レフ・トロツキー」の死に様の信憑性

トロツキー氏は頭部を強打されたもの叫び声を上げた事で警備員が駆けつけ、加害者のメルカデル氏はその場で捕らえられています。

トロツキー氏が死亡した翌日にソビエト連邦共産党の機関紙『プラウダ』で事件の詳細や犯人の名前が取り上げられますが、この時点でメキシコ国内での報道はなかったため、ソ連の工作員による犯行の信憑性はより高まることとなりました。

当時日本での事件の報道は23日夕刊での報道となったことからも、殺害の情報はソ連がいち早く掌握し、報じたことがわかるでしょう。

その後犯人のメルカデル氏は単独犯行、トロツキー氏の秘書に結婚を断られたことが理由と怨恨が動機だと主張。

進展は進まず、彼の正体が判明したのは第二次世界大戦終了後の50年9月のことでした。

既に10年が経過し、事件も風化しつつありました。

その一方でいち早くソ連に戻ったトロツキー氏暗殺部隊の首謀者二人はベリヤ事件に関与した疑いで1953年8月に逮捕。

そして多くの部隊員は粛清の対象となり、この世から姿を消しています。

まとめ

1940年8月20日に亡命先のメキシコ・メキシコシティの別荘でソ連内務人民委員部「ラモン・メルカデル」にピッケルで殴打されました。

トロツキー氏は反撃するもその傷が致命傷となり、21日19時に死亡しています。

死因は外傷性の頭部損傷によるもので具体的な病名は発表されていません。

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