「マリー・アントワネット」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「マリー・アントワネット」の死に際とは?世界の人物

マリー・アントワネットの死因と処刑日は?

「マリー・アントワネット」とは?簡単に説明

フランス国王ルイ16世の王妃であるマリー・アントワネットは、オーストリアとフランス両国の政治的同盟のためにルイ16世へ嫁ぎますが、フランス革命により処刑されてしまいます。

1755年に神聖ローマ皇帝のフランツ1世とオーストリア大公マリア・テレジアの間に娘として生まれたマリーは、わずか14歳という若さでブルボン王家に嫁いできます。

最初は好意的に迎えたパリ市民でしたが、彼女の王室らしからぬ派手な服装や髪型、また観劇や舞踏会ばかりに執心する姿勢により、徐々にその評価は落ちていきます。



「マリー・アントワネット」の晩年

1789年に起こったフランス革命は、食糧難に苦しむ数多くの民衆たちが、ヴェルサイユ宮殿に食糧などを求めて力づくで行進し始めた事件がきっかけとなって始まった革命です。

これによってルイ16世とマリー・アントワネットを含む王室は、ヴェルサイユ宮殿からパリのチュイルリー宮殿に逃げるようにして移動します。

わずか2年後の1791年には、マリーアントワネット一家はパリから逃亡することを余儀なくされますが、脱出する前の国境付近で一家は捕らえられてしまいます。

自分たちを見捨てて逃げ出した王家への不信感にはさらに拍車がかかり、共和主義をより加速させる流れが強まっていきます。



「マリー・アントワネット」の死に様

1792年、パリの民衆がチュイルリー宮殿を襲撃した八月十日事件によって、マリー・アントワネットを含む王家の人々はタンプル塔に幽閉されてしまいます。

翌年、夫であるルイ16世は裁判にかけられ、ギロチン刑に処されてしまい、夫の死後、カペー未亡人と呼ばれるようになったマリー・アントワネットは喪服を着て過ごすようになりました。

一部の王党派によって王妃アントワネットの脱出計画が企てられ実行に移しますが失敗に終わり、その後はさらに監視が強化されてしまいます。

そして遂に1793年10月14日から革命裁判が行われ、アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画などの罪に問われ、死刑を求刑されてしまいます。

アントワネットは処刑の直前にルイ16世の妹であるエリザベートに宛てて遺書を書き残しており「犯罪者にとって死刑は恥ずべきもの、しかしながら無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という王家の誇りを感じさせる一文を書き綴っていました。

10月16日12時15分、特別な囚人であるアントワネットは、肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていき、ついにギロチンが下ろされ刑が執行されてしまいます。

彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に乗せられ、はねられた首は手押し車の足の部分に乗せられ運び去られました。

「マリー・アントワネット」の小ネタ等

マリー・アントワネットは、フランスとオーストリアを結ぶ役割を求められ、わずか14歳という若さでフランス王室に嫁ぎます。

当時まだ15歳だったルイ14世との婚姻は、オーストリアと宿敵フランスを繋ぐ人質としての色が濃い政略結婚で、両国の同盟を強固にする意味合いが強いものでした。

婚姻後、アントワネット夫妻は7年に渡って子宝に恵まれませんでしたが、最終的には4人の子供を産み、7人の子供を養子として迎え入れています。

アントワネットが裁判にかけられた際には、愛すべき実子であるルイ17世との近親相姦の罪も被せられますが、これは事実ではなく、ルイ17世が捏造された文面に署名するよう強要されたことによるでっち上げとして知られています。

まとめ

マリー・アントワネットは、軽率で浪費しすぎの市民に寄り添っていない王妃としての一面が色濃い人物でしたが、革命前後の混乱期のフランスに翻弄された悲劇の主人公と言えるかもしれません。

女性ながらも最期はギロチン刑に処されたその宿命と、王妃として最後まで誇りを失わなかったその潔さが、現在においても語り継がれ続ける理由でしょう。

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