この記事では、「エミール・ガレ」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「エミール・ガレ」とは?
「エミール・ガレ」とはフランスのガラス工芸家で、アール・ヌーヴォーの巨匠として知られています。
父が経営する陶磁器と家具の工房に入り、1860年代頃からガラス工芸を始めました。
1878年に独自に開発した「月光色」のガラスの器をパリ万国博覧会に出品し、世間から大きな注目を集めます。
昆虫や植物をモチーフにした華麗な装飾を施した器は大流行しました。
日本美術の影響を受けていたことでも知られています。
「エミール・ガレ」の晩年
「エミール・ガレ」は晩年も旺盛な創作意欲を持っており、様々な作品を世に送り出しました。
その生涯では3度パリ万国博覧会に作品を出品しており、いずれも大成功を収めています。
最後のパリ万国博覧会は1900年のことで、大量のガラスの器と家具を出品しています。
前回に引き続きグランプリを獲得し、高い評価を得ました。
その2年前には、ガラス工芸の技法であるマルケトリとパチネで特許を取得しています。
マルケトリとは、ガラスのパーツをガラスに嵌め込む技法になります。
パチネはガラスの表面を濁らせる技法です。
また、「エミール・ガレ」はフランスのローザンヌ地方ナンシーの出身で、ナンシーに自宅や工房を構えていました。
晩年にはエコール・ド・ナンシーと呼ばれるナンシー派の会長にも就任しています。
ナンシー派はアール・ヌーヴォーの一流派で、ナンシーはアール・ヌーヴォーの拠点となっていたのです。
ガレがジャポニスムに影響を受け、それが作品にも表れていることからナンシーに生まれた日本人と呼ばれることもありました。
「エミール・ガレ」の死に様
「エミール・ガレ」は、1904年9月23日に亡くなります。
死因は白血病でした。
享年58です。
「エミール・ガレ」の死に様の信憑性
病床にあっても「エミール・ガレ」の創作意欲は衰えなかったようで、作品を作り続けていました。
亡くなる前年の1903年にはパリの美術館でナンシー派展を開催しています。
この展覧会に数多くの作品を出品しました。
ガレが亡くなった後には、画家のヴィクトール・プルーヴェとガレの妻が工房を引き継いでいます。
ヴィクトール・プルーヴェは、ガレのガラス工芸品のデザインを担当したこともあったようです。
まとめ
「エミール・ガレ」は晩年も創作活動を精力的に行っていましたが、白血病により58歳で亡くなっています。