「ブルーザー・ブロディ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「ブルーザー・ブロディ」の死に際とは?世界の人物

超獣も刃物には勝てなかった?「ブルーザー・ブロディ」の散り際とは?

この記事ではブルーザー・ブロディの晩年と散り際について解説していきます。

「ブルーザー・ブロディー」とは?簡単に説明

80年代の日本プロレス界で最強の外国人選手を話題にした時、必ず名前が挙がるのが「ブルーザー・ブロディ」氏だと言っていいでしょう。

元々は全日本プロレスにおいて「ジミー・スヌーカ」氏とのタッグで暴れていたもの新日本プロレスから旧友「スタン・ハンセン」氏が移籍すると超獣コンビを結成。

全日本プロレスマットを席巻しています。

その後新日本プロレスへ活躍の場を移し、ピークを過ぎていた「アントニオ猪木」氏と対決。

シングルマッチは猪木氏晩年のベストバウトの1つとして語り草になりました。



「ブルーザー・ブロディ」の晩年

1985年に日本での主戦場を新日本プロレスへと移していたものトラブルが頻出。

特に85年末IWGPタッグリーグ戦を発端としたボイコット事件は有名な話だと言っていいでしょう。

新日本プロレスへ見切りをつけて、全日本プロレスへの復帰を画策していたとされますが、水面下での交渉はうまくいきませんでした。

86年後半の新日本プロレスマット再登場もボイコット。

さらには87年の米国NWAフロリダでの不穏試合もあり、トラブルメイカーのレッテルがより米国マットで浸透していくことになります。

ジャパンプロレス勢の大量離脱による全日本プロレスの苦しい懐事情から、87年10月に日本マット界に復帰。

以降は全日本プロレスとプエルトリコを主戦場として闘っていくことになりました。



「ブルーザー・ブロディ」の死に様

1988年7月16日にプエルトリコのバヤモン・スタジアムの控え室でブッカーの「ホセ・ゴンザレス」にナイフで刺されてしまいます。

肝臓にまで達した傷からの出血が止まらず、17日に死亡。

42歳没。

「ブルーザー・ブロディ」の死に様の信憑性

ブロディ氏は日本での知名度が高いこともあり、当時の週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツといった媒体でその死は大きく取り上げられることとなりました。

しかし加害者の「ホセ・ゴンザレス」氏は取り調べで無言を貫いており、動機などを含め事件に不明瞭な点が多々あるのは否めません。

ブロディ氏は気難しく、トラブルメイカーなのは米国マット界でも広く知れ渡っており、ある意味その死も達観して受け取られました。

事件の背景にはブロディ氏が株式の買収により、WWCの経営に参画。

共同経営者になった暁には、現地の英雄でもあったホセ氏の追放を画策したことで恨みをかったとも言われます。

しかし裁判ではホセ氏は正当防衛が認められ、無罪放免となりました。

またブロディ氏にとって不運だったのは指を骨折。

複数の鎮痛剤を大量に常用していたことで止血剤が効かなかったこと。

治安の悪いプエルトリコでの刃傷沙汰で救急車で運ばれたにも関わらず治療が即開始されないなどの不運が重なりました。

まとめ

1988年7月17日にプエルトリコで死亡。

42歳没。

死因はナイフによって複数箇所刺されたことによる失血死でした。

当時指を2本骨折しており、鎮痛剤を複数種類、大量に常用。

副作用の血小板機能障害により、出血が止まりませんでした。

また救急車で病院に到着しながら、20分以上処置されなかったのも死に繋がったと言っていいでしょう。

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