東海岸と西海岸のラップバトルで命を落とした?
「ノトーリアス・B.I.G.」の散り際とは?
この記事ではノトーリアス・B.I.G.の晩年と散り際について解説していきます。
「ノトーリアス・BIG」とは?簡単に説明
『2Pac』氏と並ぶラップ界の巨匠でありながらも、それが昂じて命を落とす形になってしまう形になりました。
ニューヨークのブルックリン・ベッドスタイ出身でドラッグが蔓延している環境の中で育ち、自身も売人を経験があることで知られています。
94年に発売された『レディ・トゥ・ダイ』はデビューアルバムながらも秀作として後年に名を残しています。
ラップ界における米国東海岸勢の旗頭かつボスとして台頭することになりました。
「ノトーリアス・BIG」の晩年
94年11月の最初の2Pac氏襲撃事件の現場にビー・アイ・ジー氏とニューヨーク東海岸を代表するプロデューサー「ショーン・コムズ」氏が現場にいたことで2Pac氏は2人が黒幕であると思い込み、ことあるごとに挑発を繰り返していきます。
このことはラップ界の東西関係を悪化させ、時として血で血を洗う関係となっていきます。
これにより2Pac氏が出所後96年9月にラスベガスで銃撃を受け死亡した際には黒幕であると西海岸勢から思い込まれてしまうのでした。
「ノトーリアス・BIG」の死に様
1997年3月9日1時15分にロサンゼルスの病院で死去。
24歳没。
死因はホテルに帰る途中で銃撃を受けたことによるもの。
4発が胸部を貫いており緊急搬送されるもそのまま亡くなっています。
「ノトーリアス・B.I.G.」の死に様の信憑性
半年前に2Pac氏が銃撃死しており、自身にも危険が降りかかることは充分予測。
警護人を連れていたもの通りがかった車からの銃撃には為す術もありませんでした。
ニューヨークから3日前にカリフォルニア入り。
3月8日はソウル・トレイン音楽賞の授賞式に参加。
その後『VIBE』誌と『クウェスト・レコード』主宰のパーティーを楽しみ帰路につく途中での襲撃を受けた形になりました。
2Pac氏は自身がストリートギャングでもあり、容疑者と思われる人物を銃撃される数時間前に集団暴行しており、ある意味復讐されてもやむを得ない状態でした。
しかしビー・アイ・ジー氏の場合は完全に逆恨みから強襲されたに等しいとも言えます。
また彼を襲った黒幕と会ったという人物が名乗りを挙げています。
情報によれば「ダウード・マハマッド」氏と名乗る人物でロサンゼルスのストリートギャングとされますが、信憑性は不明。
結局2Pac氏同様に銃撃事件は迷宮入りすることになってしまいました。
まとめ
97年3月9日1時15分に運ばれたロサンゼルスの病院で死亡。
24歳没。
死因は通りすがりの車から発砲を受け、4発を胸に受けたことでした。
ラップ界の東西遺恨の煽りを食った形になっています。
2Pac氏が最初の銃撃事件から思い込みで東海岸勢を挑発、煽りを繰り返し対立構造が完成。
また2度目の銃撃事件で死亡する前には集団暴行を働いており、ある意味復讐されても仕方ない状況にでした。
しかしビー・アイ・ジー氏の場合は死亡事件に対する西海岸勢の完全な報復だと言っていいでしょう。
元々初回も含めて襲撃の黒幕である事実もなく、東西抗争の煽りを食って殺害されてしまった感は否めません。