「クール・ビューティ」 と賛美され、アメリカ合衆国の女優からモナコ公国の公妃となったグレース・ケリーは52歳で亡くなりました。
今回はその死因について解説します。
「グレース・ケリー」とは?簡単に説明
1929年にアメリカ合衆国のペンシルベニア州で誕生したグレース・ケリーは、ハリウッドの女優からモナコ公国の公妃へと転身した女性です。
1920年に開催されたアントワープオリンピックのボート競技において2つの金メダルを獲得したアイルランド系の父と、元モデルの大学講師であるドイツ系の母の間に生まれたグレースは、幼少時代は内気でおとなしい性格だったものの、高校卒業後は家族の反対を押し切って女優を目指すことになります。
22歳の時に映画デビューを飾ったグレースは、4年後には映画「喝采」でアカデミー主演女優賞を受賞し、順調に女優としての地位を確立していきますが、モナコ大公レーニエ3世と結婚したことによりモナコ公国の公妃へと転身することになります。
結婚後は子どもにも恵まれ公妃として精力的に活動を続けますが、1982年9月13日に起こした自動車事故により52歳で永眠しています。
「グレース・ケリー」の死に様
グレース・ケリーは実の娘であるステファニー公女を乗せたローバー3500を自ら運転しながら、南フランスの別荘からモナコの邸宅に向かっていました。
その運転中に脳梗塞を発症してしまったグレースは、ハンドル操作を誤って急カーブの坂道でガードレールに激突してしまい、自動車はそのまま道路に沿った崖から40mほど転落して大破してしまいます。
すぐにグレースと娘は病院に搬送されますが、意外にも軽傷だった娘に反してグレースは2度目の脳内出血の後、死亡してしまいます。
モナコ公妃を事故で亡くしてしまったことを受け、モナコのモンテ・カルロでは全てのカジノの営業を中止して1日喪に服しました。
「グレース・ケリー」の死に様の信憑性
普段であれば愛車のローバーの運転は専属運転手の仕事でしたが、グレース・ケリーが事故を起こした当日はグレース自らがハンドルを握っていました。
新生活を始めるために大量の荷物を一緒に運搬する必要があったため車内のスペースが足りず、グレースは自分で運転して帰宅することを選んだのでした。
車に同乗していたものの軽症で済んだステファニー公女によると、運転中グレースは何度も頭痛を気にする素振りをみせていたそうで、死後の検死結果は、脳血管発作による事故と公表されています。
この発作に加えて、グレースは事故の衝撃で、大腿骨や鎖骨、肋骨などを骨折しており、検死した際には身体中の骨が破損してしまっていたそうです。
「グレース・ケリー」の小ネタ等
グレース・ケリーは3人の子供に恵まれましたが、妊娠中にエルメスのバッグ「サック・ア・クロワ」でお腹を隠したことで、そのバッグが有名になり、その後エルメスは正式にこの商品を「ケリーバッグ」と命名しています。
まとめ
グレース・ケリーは大事故を起こしたとは思えないほどきれいな死に顔をしていたため、苦しむことなく天国に召されたと言われています。
生前の輝かしい経歴と彼女の美しい笑顔は今でも多くの人の胸に焼き付いています。