「岡田茂吉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

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伊豆・箱根観光の定番美術館の生みの親 「岡田茂吉」の死に際とは?

この記事では岡田茂吉の晩年と死に際について解説していきます。

「岡田茂吉」とは?簡単に説明

戦後に現れた新宗教『世界救世教』の創始者。

もともとは無神論者だったそうですが不治の病を2度、そして自身が起こした事業が頓挫、妻の流産や先妻の死去など多数の不幸に見舞われるなかで、神道系新宗教『大本教』に入信しています。

その後自身の神霊指圧療法を開始したことから、大本教を離脱して自身で立教。

『大日本観音会』を起こしています。

岡田氏の名前を知らない方でも関東甲信静地域の方は『MOA美術館』や『箱根美術館』はご存知の方が多いのではないでしょうか。

2つの美術館は何れも岡田氏の収集品を展示した姉妹館です。



「岡田茂吉」の晩年

当然ながら戦前から戦中は様々な事柄に制約が設けられた時代であるため、宗教的に迫害と呼ばれる様な出来事を経験する事となりました。

また当然ながら太平洋戦争末期になり、東京は米軍の空襲の脅威に晒された事で拠点を変更。

東京世田谷区上野毛の玉川郷から神奈川県箱根町強羅と静岡県熱海市の二拠点体制へと切り替えました。

これが後の世の2つの美術館への繋がりになったと言ってもいいでしょう。

終戦後晴れて活動に制約が設けられなくなった事から、日本観音教団として第一歩を踏み出しています。

次いで日本五六七教を起ち上げた後に発展解散。

世界救世教を創設する運びとなりました。

同時に美術品の研究、収集が始まり、それは後に美術館という形で現地に還元される事になっています。



「岡田茂吉」の死に様

1955年2月10日に逝去。

72歳没。

死因は脳溢血によるものでした。

「岡田茂吉」の死に様の信憑性

1953年には自ら脳溢血に関する考察を発表していたもの翌年には自身が脳溢血で倒れる事は想像していなかったのではないでしょうか。

1954年4月19日に脳溢血の症状を訴えて倒れてしまいました。

しかし病で倒れた岡田氏の身体にメシヤが降誕。

6月5日には世界救世教の幹部を熱海に召集して降誕を宣言しています。

また6月15日にはメシヤ降誕仮祝典を開催に尽力するなど健在なところを見せています。

この初夏の時点では脳溢血でも致命的なものではなかったと推測ができるでしょう。

その後の容態についてはほとんど公表されていません。

まとめ

1955年2月10日に逝去。

72歳没。

死因は脳溢血によるものとされていますが詳細は不明。

最初に脳溢血で倒れたのは54年4月19日ですが、その後6月にはメシヤ降誕を宣言するなど症状は致命的なものではなかった様です。

亡くなる2日前には国宝である「野々村仁清」氏の『色絵藤花図茶壺』を入手したばかりでした。

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